ジャックラカンへ、敬意を込めて
若干1年4ヶ月半ぶりくらいにはてなブログを開いて昔のあたしの思考を振り返ってみたわけなんですけど、
え〜!お前よく考えてんな!
って言ってやりたい気持ちでいっぱいになりました。
今あたしは留学した高校を卒業して大学受かってバイトしながら彼氏と半同棲して生きてるわけだけど、だいぶ心の平穏が保たれていると同時にストレスが溜まってもどうでもいいやと処理できるまでには成長したと思ってはいます(ストレスを抱える癖は相変わらずですが)。
特に「遺書」なんかはよく書けたなとしか思えなくて、そう思えば今あたしってだいぶパッションで生きてるのかもしれない。なんでもかんでも気合いさえあればなんとかなるみたいな思考になってきました。
いうなればこれは完全に、「先のことを考えて今を乗り切る」型彼氏の影響です。
そう!あたしって人に影響されやすいんだな!
「わたし」から「あたし」表記にしたのも誰かの影響だったし、服も誰かの影響受けて変えてたし、たばこも人の影響で変えたし、うんぬんかんぬん
人は1人では生きてけないんだなってこういうことですよね、言うじゃないですか、「諸行無常」って。「生きること」すなわち「変わること」なんですよね。
比較対象ないしサンプルがなければそこに「変化」に対する想いって生じなくて。だからあたし、たくさん影響されてそんな人間社会の中で自分確立する「今」に幸せ感じてるんだと思います。人間社会なんて相互関係の蛸足なので一生変わるし一生そこでもがく未来が見えますね。
でも怖いのって
なーーーーんにもなれない時。
「上には上がいる」って言葉があるように、「誰か」がいることであたしは「井の中の蛙」になるわけです。例えばあたしのすぐ隣に「できた人間」がいるわけなんですが、そりゃもう、あたしは2桁の年数程海外いなければ、理系みたいな頭の回転もなければ、要領もよくなければ、社会経験も積めてないし、そんな世界見てきてないし、、だいぶな頻度で脳内サミットでネガキャン祭が開かれてしまい、自分を惨めだと蔑んでしまう羽目になります。
#自分惨め2021
惨めだー!!!って思ってはどうにか這い上がってやろうと立ち直る、最高だな自分。
結局比較対象があってこその自分で、「誰か」がいないとあたしって確立できないんです。鏡像段階論みたいなものですね。バブバブオギャ!!
だから、あたしの周りであたしに良くも悪くも影響与えてくれてあたしを成り立たせてくれる「人間たち」には感謝します。
3ヶ月後には成人します、どうぞこれからもよろしくお願い致します。
ニガツイッピ 哲学のバブみ